雑ナンパ戦記

きっと、参考にはならないでしょう。

下手でいい、下手がいい。大人になってスキーを習うのは屈辱的な経験という話。

最近読んでいる本に、「大人になってスキーを習うのは屈辱的な経験だ」という言葉があった。

 

端的にいうと、

「スキーを習っていると、まともに立つことができない、すぐ転ぶ、教えられたことを一度にできない等、二足歩行の練習なんてとっくの昔にマスターした大人にとっては屈辱的な経験をすることになる」

というお話。個人的には「いや普通の二足歩行とスキーって、装着している用具も、周囲の環境も、全然違うじゃん。屈辱的に感じることはなくね?」と反論したくなったのだが、これって何かと似てるなと思い、ああナンパと一緒かもと思った次第。

 

どういうことかというと、「ある状況では何の問題もなくできているはずのことが、別の状況では全く普通にできなくて凹む」という現象は、ナンパをしていると大いに発生するよね、ということ。

 

まず、声かけ。

「知らない人に話しかける」という行為自体は、物を落とした人に話しかけるとか、道に迷って話しかけるとか、普通に実行できる。周りの目なんて別に気にならない。

しかし、いざ「ナンパするぞ」という前提になった途端、周りの目が気になり始め、声をかけたとしても、緊張して自信なさげになってしまう。そして、「たかだか声かける程度のこともできないなんて。道を聞いたりするのは普通にできるのに。」と歯がゆい思いをする。時には意気消沈する。

 

次に、和み。

「知らない人と顔見知りせずに会話できる」という自覚がある人にとっては、「ナンパで声をかけた後、たどたどしくつまらない話しかできなかった」という経験は、なかなか屈辱的かもしれない。

自分は割とこのタイプで、声をかけた子が無視せずに対応してくれた時に、こちらがスムーズに会話を進められないと、悔しさで爆発しそうになる。街中で頭を抱えてうおぉぉおー!と叫びたくなる、とまではいかないが、舌打ちくらいはしてしまう。

 

と、こんな調子で、ナンパ活動をしていると、「話しかけて、多少面白い話して、笑わせるくらいのことが、何でできないんだ!」と悔しがり、屈辱的だと思ったり、自信喪失したりする。

(自分は最近リハビリ中なので、特にこういうことが多い)

 

しかし、である。「道を歩く」と「スキーをする」が実際には全然違う状況であるように、「通常の会話」と「ナンパ」も全然違う状況なのである。前提が全く異なるのだから、思い通りにいかなくて当然なのだ。だから、「自分にはできると思っていた、でも実際には上手くできない」というジレンマを抱えたとしても、それは微妙に事実の認識がおかしくて、前半の「自分にはできると思っていた」が致命的に間違っている。

 

最初からナンパが上手い人というのは、実際にいるらしい。英語のナンパ業界では"Naturals"と呼ばれるらしく、ほとんどの場合、理論武装したナンパ講習生よりもNaturalsの方がモテるらしい。だがしかし、彼らは天才、あるいは天才に見える努力家であり、そもそも自分との比較に持ち出すべき存在ではない。

 

ナンパ活動の多くを孤独に過ごすソロ勢からすると、ブログにしてもTwitterにしても、結果をバンバン出している人に対して抱く感情は「憧れ」と「劣等感」が半分ずつのような気がする。憧れは、単純に「この人すごいな、この人みたいに結果出せたらいいな」という感情で、自己の研鑽につながる感情でもある。他方、劣等感は「世の中にはこんなすごい人がいるのに、自分は何時間も歩き回って、3声かけしかできなくて、しかも坊主だ・・・もう何ヶ月もゲットなんてしてない・・・」という感情で、まあ端的に言って建設的なものではない。この劣等感というのがなかなか曲者で、ソロ勢の自分のやる気をすごい勢いで削いでいく。

 

自分はナンパについては集中的にやったりサボったりで、1年か2年くらいの周期で同じような問題の周辺をぐるぐる回っているのだが、なかでも頻繁に登場する問題が地蔵である。ソロ勢にとっては、地蔵は死に至る病である。結果が出なくても声かけさえしていればナンパ師としては死なないが、声かけをしなくなるとナンパ師として死ぬ確率が高まる。だから地蔵は死に至る病なのである。

(ちなみに、ナンパ師として死ぬこと=ナンパを卒業すること自体は「ナンパよりも大事なこと、人が見つかった」という意味で素晴らしいことだと思う。だが、地蔵が原因で死亡しそうな場合、そのまま死ぬ=ナンパをやめると絶対に後悔すると思う。)

 

で、ここ最近発見した、「地蔵を招いてしまう、あまりよろしくない無意識」というのがあって、それは「上手くやろう」という無意識である。

上手くやろう、つまり「上手に声かけをしよう」という無意識があると、

「もうすれ違ってから、結構な時間が経っちゃったな。今から追いかけたら、キモいよな。」

「今の子、周りの人たちが納得するくらいの美人ではないから、ナンパしてるところ見られたら恥ずかしいな。」

「知り合いに目撃されたらいやだな。大丈夫かな。」

という、まあ一言で言えば「クソどうでもいいこと」が気になってしまい、結局声をかけずに終わってしまったりする。

 

そこで最近、ふてぶてしくも、「下手でいい、というか、下手がいい」という気持ちで街に出ている。先に述べたような「クソどうでもいいこと」が頭に浮かんだら、

「いや、関係ないし、1ミリも問題じゃない。下手でいいんだから。」

と考えるようにしているのだが、少しずつではあるけれど、地蔵の回数が減ってきた。もちろん100%絶対地蔵しないわけではないけど、「クソどうでもいいこと」が理由で地蔵する回数は減った。

 

下手でいいのだ。ナンパは簡単じゃない。日常会話と同じじゃない。初対面だし、ナンパをジロジロ見る人は実際にいるし、何より女の子がこちらに抱く警戒はとても強い。実際、日常会話との共通点は、「会話してる」という点くらいだと思う。

 

だから、そんなハードモードのクソゲーをやる以上、上手くいかなくて当然なのだ。上手くいく前提でプレイしていると、心が折れる。上手くいかない前提でプレイするのが、ナンパというゲームに対する正しい心構えなのだ。

 

上手くいかないくても、屈辱的だなんて思っちゃいけないし、そもそも上手くやろう、なんて考えちゃいけない。下手くそでいい。下手くそなのが正解なのだ。